発足10年 1979年度実業団大会師家挨拶(1979年11月11日)

他力は自力が前提条件

 私はずっと自力宗の坊主で、自力・自力・・・・・ずっと今日迄自力でやってまいりました。そして他力をむしろ否定する立場をとってまいりました。しかし、(少林寺が)ここ迄成長してまいりますともう自力だけではいけません。人間を育てる過程を見ると一番よくわかるのですが、生まれてきて、ものごころがついてもある年代迄は自力なんてないのです。親が便所につれていってくれる。買い物にもつれていかれ、いやでも寝かされる。しかしものごころがつくころになるとどうしても自力の世界なのです。それから年がいって自力ではどうしてもいけなくなると、又他力が必要になります。そしてその他力を得る為には、若い時に一生懸命やっている。という前提がなければならないのです。私も早くして両親を失って、苦労を重ねて、食わなんだり食えなんだりの人生を送って来ていますので、自力だけでは生きてゆけないのはよくわかっています。

しかし少林寺は今、創立33年目です。やっと青年期の段階に入ったと思うのです。今、我々はあまり他力を期待してはいけない・・・・・ということで今日の少林寺をむかえたわけであります。

少林寺の建立

 今、この大会場にまいりまして、いろいろな事を感じました。中には、今ごろ国旗の入場式をやったり、国歌を斉唱・・・・なんていう抵抗のある人がおられるかも知れません。

私が諸君に読ませている道訓に、祖国日本を愛せ・・・とか、身体は両親からいただいたのだから報恩の誠を尽くせ、とかいうのは古いと思っている人がおられるかも知れませんが、それは戦後の誤った教育が原因しているのです。私が少林寺を建立し、少林寺拳法を教えて諸君を育てる原因になったのは、「私は日本人であるという誇り」を失ってはならない、と痛切に感じたからなのです。

日本軍は国民を捨てて逃げた

たとえば、昭和20年、日本は無条件降伏をいたしました。私はその時、ソ連国境にいたのですが(日ソ不可侵条約を一方的に破棄したソ連が、キャタピラの音を響かせどんどん進入してくるのですが)、その時、軍隊は住民をおきざりにして逃げたのです。彼等は逃げたんだとは言いません。転進する、といっているのですが実は後方にさがっているのですから、逃げていることになります。(そして女子、子供をまじえた地方人たちは着のみ着のままで逃げるのですが)、その時列車を徴用した日本軍は、住民が「乗せてくれ」と頼むのを「さがれ!これは軍用列車だ、お前達地方人を乗せる車ではない。作戦行動を邪魔するな!」と言って乗せてくれませんでした。このように軍隊は師団もろとも住民を置き去りにして逃げたのです。そして彼等は家族やブタやにわとりまでつんで逃げたのです。私はこのことを17年前にカッパブックに書いていますが、「文句あるならいって来い」というのですが未だ誰もいってきません。事実です。国民は捨てられたのです。つまり軍隊は天皇の軍隊であったが、国民の軍隊ではなかったのです。天皇のために死ぬ、天皇、天皇、天皇をだしにして、一部の人たちが都合のいい時だけ使った。そんな時代を私は生きて来たのです 。

日本人はソ連占領下、日の丸はつけさせてもらえなかった

そしてハルピンに出てきてから感じたこと、新京に出てきてから感じたこと、ソ連の占領下で日本人は、日の丸をつけさせてもらえなかったのです。彼等は日の丸の代わりに菱形の赤いマークをつけさせて町を歩かせたのです。なぜ日の丸をつけさせてくれないのか。戦争に敗けた日本人に日の丸などいらない、というわけです。このようにソ連の支配下では本当に嫌なことを経験してきました。

米軍下、日の丸に出合った。日本という国があった。

 やがて米軍が入って来て、コロ島経由で引き揚げて来るのですが、そのコロ島引揚げの時、米軍は上陸用舟艇に日の丸をつけて迎えに来てくれたのです。なんと心にくい思いやりなのでしょうか、私は涙が出てきましね。本当に嬉しかった。強烈な印象です。敗戦地をさまよったあげく、日の丸に出合ったのです。それは日本という国があったからこそです。(ここで師家は絶句、師家の純粋な涙の露を見て満場五千人は共に泣き陶酔した。)

帰国の日本の姿は焼け野原

 このようにいやな事も、感激する事も両方経験して、日本に帰って来ました。しかし日本は焼野原で、何もありません。食べるものもありません。着るものもありません。職もなく、勿論働く工場もありません。

わずかの第三国人の前で日本人は屈従

 このようにして、茫然としたなかで、私は第三国人と称するわずかの異民族が、勝手な真似をしていて、八千万もいる日本人は黙ってそれに屈従している状態に出くわしたのです。戦争には負けたかも知れないが、日本人は八千万はいるはずである。彼等はわずか50万か30万しかいない、しかもその中で喧嘩の出来る人数は全部を含めても数は知れているはずである。これだけ引き揚げ軍人がいるのに、日本人は一体何んなのであろうかと思いました。

正しいものが正しく生きてゆく為には理論だけでは生きられない

「私は、幾度となく死にそびれてきた男である。私の眼の前で勝手な真似はさせない。私の生きている限り、私の眼の前において、そんな無法は許さない。」これが少林寺の最初の発足の状況なのでした。即ち正しい者が正しく生きてゆく為には、理論だけでは生きられない、ということなのです。

昨日迄の愛国の士は一夜明ければ泥棒呼ばわりか

 そういう中で、次に私は国家権力のいやな面をみましたね。当時は、引揚げ軍人が何十万と路頭にあふれていました。食いものも着るものもなく、職も勿論無い彼等が何とかして家族を養い、自分達も食べようとして闇米運びを唯一の手段にしていました。その強盗にもなれない良心的な引揚げ軍人を、昨日迄は万才、万才と手をたたいて戦場に送り出し、愛国の士だと持ち上げていたものを(特攻隊くずれと人に呼ばれていましたが)警察があくる日からコロッと変わってこんどは引っ捕らえる側にまわったのです。何とかして家族を養い、自分も食べようとしているのを、没収するのに出くわしたのです。

日本人とは一体どういう民族なのか

 日本人とはいったいどういう民族なのだろうか、私は本当で悩んだのです。一体、何の為に戦争にいったのか。そして帰って来て、いったい何をしたらいいだろう。

警察を見ると「おい制服を着た強盗が来たぞ」、「荷物をかくせ、捨てろ」、といって列車から荷物をどんどん捨てるのです。このように日本人同志が足のひっぱりあいをした。

日本人であることの自覚と日本人同志の助けあい、日本人の自主性・誇り。そんなものが全然ないという状態の日本に帰って来たのです。これを何とかしなければ・・・・・・ここに少林寺拳法の原点があるのです。

少林寺はごまかしの教えではない

病気を治したり、先祖のたたりをこらえてくれるようなごまかしの教えを説く為に、私は少林寺なんていうものを作ったのではないのです。

 まず、日本人にしっかりした自主性をもたせて一人一人をよくし、今度はそれを横につなげて仲良く出来る社会を作りたい。

 天皇の軍隊、天皇の警察、天皇、天皇、天皇を利用したものばかりの集団の中にあって、日本人のために何かしようと云わせてもらえなかった時代に、私が戦争中に経験した、中国での長い生活で得た教訓は、中国人の良さは秘密結社が盛んであることでした。当時、中国には天皇はいませんでしたが、清朝を最後にして、蒋介石の時代がきた、王清衛の時代が来た、いや日本軍が来た、ソ連が来た。「いや、だれが来てもいい、俺達中国人同志は助け合う」という組織があったのです。そういう組織活動を私はやってきましたので、戦後の日本にそれを作ってみたいと思い、その考えについてこさせたいと思ったのです。それには理屈だけ言ってもついて来ない。お説教は一度聞けば馬鹿でない限りわかるわけですからね。でも中国で学んだいろんなすばらしい技術がある。これを学びながら・・・・気がついたら3年たった、5年たったというのが諸君じゃあないかな。

少林寺の発展の最大の要因は田舎の子供を育てたこと

少林寺が発展した最大の原因は、田舎の子供を育てた、ということです。

香川県は小さい島国の中のまた、島国でして、讃岐はものが育たんというところだそうで、三日坊主じゃあなくて一日坊主だといわれるようなところでした。先生のようなよそ者が来て、ねえそんな天下国家を説いたところで誰か聞いてくれるか、といって笑われた時代から私はこういうことを伝えて来たのです。当時の言葉でへらこいといわれる。こずるいとか、要領のいい讃岐の若いものが、最初に入って来たのですが、彼等が工業高校を卒業し、地方に散った、それが今の諸君の、最初の出発点だったのです。この実業団連盟が最初に根をおろしたのは、高校卒から始まって連中がつくってくれたのですよ。他の武道の大家もいらっしゃるでしょう。いろんな組織の中で、外来文化を否定する日本の中で、これが水の染み通るように自然に広がって来たのです。そのうち、学校を出て大学へゆく連中が出て来ました。

馬鹿にされていた田舎の子供が自身をもって、勇気をもって、他の武道団体の実力妨害を排除しながら、拳法部をつくりました。現在、一流大学で拳法部のないところはありません。今、ここに集った実業団の諸君もそういう経験はお持ちだと思いますが、今、私はこのようにいまでも中国服を着ています。これは田中さんが中国にいったからといってあわてて中国に便乗している連中とは訳がちがうのです。私は30年にわたってこれを着ています。それは何故かというと、安くて、便利で一番いいからです。中に何を着てもいい、ネクタイもいらないし、諸君もよろこんで着ていてくれます。何も真似をするのが目的ではない。結果として便利がいいから着たというのが本当なのであって、今諸君のやっている少林寺拳法も同じことなのです。何といわれようと、いいものはいいのです。人が認めたから広まったのです。もう孫の代まで来ています。おじいちゃんがやってきたから来た、というものが入門に来ます。このような中で実業団大会が開かれたのは、大変嬉しく思います。と同時に実は呆れているのです。いつの間にこれだけ広まったのでしょう。30年前、田舎の高校生相手に始めた少林寺拳法が・・・・です。私が出ていって作った支部はほとんどありません。全て私の呼びかけに共鳴し、感動し、それを又、他人にひろめようとして集まって出来たものです。その為に今日、ここに集まったのではないかな 。

日本人は砂のような民族

日本人に一番欠けているものマッカーサー時代のアイケルバーガーという人がいましたが、あの人がこういうことを言っています。日本人は砂のような民族である。占領政策が大変うまくいったのは、日本人だけでは固まることを知らない民族だ、ということをいってる訳ですね。

他人も認めろ、弟子も上手になれ

印度伝来の仏教の仁王さんの姿を見たらおわかりと思いますが、阿呍といって天地をかたどり一人が口を開ければ、一人がつぐむ。ひとりが開ければひとつが閉る。 対立した宇宙の姿そのものが、宇宙の実相であるとするならば、力愛不二という言葉、 これは私の造語ですが、肉体と精神の統一形態が、人間であるのです。しかし、自分だけの存在ではなく、他人も認めろ、弟子も相手も、上手になってもらいたい。これが基調になったから今日、少林寺が発展に発展をつづけているのです。私が頼んだのではないのに、広く外国にも広まって止めようがない。なぜでしょう。私は広がりすぎて困っているくらいです。

少林寺は愛で結ばれている

今日も入口で多くの少年少女たちが、私を迎えてくれています。もう私は顔を見る目が違いますね。もう嬉しくてしょうがない、という顔です。あっ、おじいちゃんの顔を見た。武道団体でこのような雰囲気がありましたか。私たちの世界は他の武道団体と世界が違うのです。我々は愛情で結ばれている。感情でとけ込んでいる。だから顔を見るだけで嬉しいのです。

今日の少林寺の発展は、人の力ではありません。皆うちわのもの、皆の力で出来たのです。これからも少林寺はこれを堅持していきたいと思います。

あたたかい他力のお願い

しかし、私はそれが出来ました。けども地方迄行くとそれは難しいと思います。 この機会にご来賓の皆様にお願い致したいのです。要するに私のためだけではございません。日本を良くするために、次世代を担う青少年たちのために何かあたたかい気持ちで、時には日照りが続いた時には、日覆をかけてやっていただき、水がきれた時にはそっと水をかけてやっていただける他力の願いをしたいのです。そうすればこの素晴らしい祖国日本を愛することのできる他を否定しない少林寺の若者がもっともっと育つと思っています。

その時を一生懸命に生きる

私はもう70歳です。平均年齢でいえばあと1年半しか生きられません。しかし、あと30年生きるかもしれませんしあるいは又、今日帰りに死ぬかもしれません。これはお互いにそういうことです。一寸先は分からないのですから。

そんな中で今日、中国の国家代表者が私たちのために来てくださっています。私は、このようなことができるとは思っていなかったですね。戦争中は敵の新四軍、八路軍の大幹部だった人たちが、今では、私に会うと「やあ」もう懐かしくてしょうがないというような事があるわけです。諸君も30年生きるのかもしれないぞ。今日勝手なことをしておいて、あとはくそくらえ、ではいけない。来年も又、中国政府は私を招待してくださっています。なぜでしょうか。それはその時その時一生懸命に自分の為だけのこととを考えずに、相手の立場も考えて生きてきた結果だと思います。

することをしたうえで言うことの言える人づくり

諸君は実業団だから、今、企業体の中で働いています。私は実業団の関係の、日本の経済界を代表される芦原会長はじめ、財界の皆様方に、あえていいたいのは私は少林寺の拳士に、何も資本家の手先になって、資本家が勝手なことをするのに協力せいと言っているのではありません。かといって真っ向から、少林寺は(資本家を)敵と考えて、するものもせずして、要求だけするような人間を少林寺は育ててもいません。少林寺が各界で求められ、大事されているのは、少林寺で育った若者は、することした上で、言うことを言っている。しかもいつでも相手の立場を考えている。

労使は調和すべき

私は労使がなんていうものは、協調ではなく調和すべきと考えています。妥協はいけません。妥協というのは10のものが5分5分に折れて寄った。だから20にならない。10でしかありません。しかし、10と10が妥協ではなくて融けあって働けば20も30もの力を出せるのです。労使の対立なんておかしいと思います。することをしたうえで、求めるものを求めたい。私はそういう生き方をしたいと思います。

今、ある意味で日本は非常事態

今日は自衛隊の諸君が、音楽隊を率いてきてくれた。大変ありがとう。今日も北海道の千歳航空隊が出場するということになっていたのですが、今ソ連との雲行きがおかしいですね。緊急発進、緊急発進で夜も昼もないということです。来るといったのに来られなくなってしまいました。

今、ある意味で、日本は非常事態を迎えつつあると思います。私は(日本は現在)はっきりいって、ソ連の側につくか、中国を含めた日本を中心としたアジアの陣営につくか、という岐路に立っていると思います。

日本は中国を含めたアジアの側につくべきである

私ははっきりいって、中国を含めたアジアの側に立つべきだと思います。日本が(戦前)中国に行ったのは、中国と仲良くするということでしたが、それが途中ですり替えられたのです。やらずぼったくりでみんな日本だけ得をして中国をいじめたから戦争が始まったのです。

今、日本は再び昭和初期の予兆

今日、(日本は)昭和初期と同じように再びおかしくなりつつあります。今の政治はおかしい。

今の自民党内閣を見ても、あれはおかしいと思います。分裂するならば、早く分裂したら良いと思う。社会党も分裂したらいい。祖国ソビエトに行きたい奴はいってしまえ。祖国日本のために、日本を愛する者の者たちのみで、日本を良くしたい。そのためには軍隊もほしい。もし私が権力者ならばそういう事を考えます。

少林寺は、「力」を認めています。だが力を行使するのは人間である。

少林寺は、チャンバラをやっていますが、これはすなわち、半分は力を認めているということです。原爆や毒ガスの時代に「ヤー」などといって無手の格闘術をやっているのはおかしいかもしれませんが、しかしそれを使うのは人間です。精神力オンリーも間違っていたが機械を無視したのも間違いである。ということになると、今我々は右旋か左旋かの瀬戸際に立っている。諸君は私が中国を大事にしすぎると思っているかもしれないが、拳法教範の第一ページに私はソ連の悪口を書いています。信用できないからである。今、そのどちらをとらねばならないといわれたならば、諸君は勿論どちらかをとらねばならないでしょう。二人の彼女にふたりとも愛するなどといえれば、二人とも逃げてしまう。我々はそんな土壇場に立たされているのです。

日本民族の幸せは、アジア人として日本人の自覚から始まる

私は、日本民族の幸せは、アジア人として日本という自覚から始まると思います。ある意味で、安保反対、日本再軍備反対、これらはむしろ利敵行為だと思います。共産党の五列じゃないかと思うのです。文句があったらいつでいって来い。いつでも私は相手になる。私はいつ死んでも良いと思っています。日本を本当に良くするためにはどうすれば良いか、どちらの陣営に着くべきか、そんな土壇場に来ているのです。

第二次昭和維新はこれからである

今日もたくさんの議員の方々のご臨席を頂いていますが、私は正直いって今の自民党の腐った体質は大嫌いです。でもそれを変えることが可能です。また変えることが必要です。無視はできない。でもあまり妙なことが始まりますと、私がくどく申し上げたいのは、昭和初期のように、合法的にはどうしようもできない時代が重なって、財界との結びつきがおかしくなる時に、血盟団事件が起きたり、一人一殺が始まったりするのです。天皇の任命した大臣を殺して歩いたり、陸海軍大将を軍人が殺して歩いたのじゃないですか。こんなことがこれからの日本にも起こり得ると考えています。だから第二次昭和維新はこれからが本番だといえます。そんな意味で、どうぞ諸君、はきち違えないようにしていただきたい。どうしたらいいか。赤旗を立てて祖国ソビエトなどという事はどこの世界でも存在しません。私は中国に五回行ってみてきましたが中国も毎年どんどん変わっています。人間のやる事をなどそう大差がないのです。ソ連にも行きましたが、ソ連もどんどん変わっています 。やはり平等ではありませんね。能力のある人が偉くなれるのはあたり前で、働かない人に月給くれるはずはないのである。働かずにくれ、などというのがいけないのです。政治のことに深入りするといろいろ差しさわりがあってさしひかえますが、今日おいで下さった皆さんは、自民党であろうと、社会党であろうと。共産党はいないと思うがいても結構、日本の少林寺の存在が何か意にとまったから来ていただいたのだと思います。

素晴らしい組織が動いている

私のような大陸浪人が引き上げてきて、わずか30年の間で80個師団の実戦部隊をつくったのです。今諸君がどこで働いても呼びかけさえすればこのようにすぐ集まって来てくる。

(普段は)どこにいるかわからないが、いざといえば何処で何をやっても、ワッと集まってくる。そして、行事が済むとさっといなくなってしまう。不思議な存在ですね。今日の、この実業団大会も事務局はないんですね。ほんの四、五人の連中が本気で取り組んだらできる。結果、北海道から九州まで集まって来ている。そしてこのように集まっていても今晩中にさっといなくなってしまう。素晴らしい組織が本当に動いているのではないでしょうか。

私が出来た。 ならば諸君も出来る

とにかく2000人が一堂に集まれる会堂を、30年の間に県立公園の真中に私はつくったのです。これは諸君も認めるだろう。たった一人の中国帰りの喧嘩坊主が呼びかけたことが、ここまで来てこれだけの事ができたのです。なら諸君がやればもっとできるのではないか。しっかり頼む。大会宣言にあったように、我々は勝つためにやるのではない。自分も磨きながら、他人も上手になってもらいたい。そしてお互いが手をとりあって、幸せになろうじゃないかという幸福運動をやっているつもりである。

大変勝手なことを言いました。舌足らずで、意を尽せませんが、少林寺が何故発展するかということを理解いただく為に、ちょっと脱線いたしましたが、失礼なことを申し上げました。お許しください。

とにかく、下から自然に盛り上がってきてもう止めようがありません。厳しい制限下でも毎月数十の組織が生まれてきています。どこまでゆくかわかりません。

日本の幸せの為に本気で取り組もう

どうぞ諸君は、これから自重自愛をして頂いて、本当に幸せは日本をつくるにはどうしたらよいか。これは命令ではありません。諸君の良識の中で判断して、本気で取り組んでくれたら、日本の方向は変わる事ができると思います。どうぞひとつ、これらのご健闘を祈ります。大変長い間ありがとうございました。来賓の各位、失礼の段お許しください。

(注)一部、不適切な表現が含まれていますが、当時の時代背景、オリジナリティーを重視して、挨拶をそのまま記載しております

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